短編小説『二つの想いが還るとき』

小説

§宮下千尋

1時間早く退社、会社からの帰路ではないこの道にも慣れた。

まったく、本人が行けばいいのに……。

太陽が赤みを帯びてくる時間帯が段々と早くなってきて、自転車のハンドルを握る手の指先も少し冷たいと感じるようになってきた。

あと何回、この駐輪場に自転車を置けばいいんだろ。あと何回、ここに自転車を停めればいいのだろう。

仕事をしては辞めるを繰り返し、今は半年以上も仕事をしていない。仕事といってもアルバイトばっかりで、最初に就職した会社以外では安定した職に就いたことはない。別にアルバイトだって長い続きするのであれば構わないのに、いつも長続きしない。

最初に勤めた会社で心を病んだのを知っているから、仕事を頑張ってと面と向かっては言い難いし、これまでは少しずつでいいから良くなって欲しいと願う気持ちで支えてきた。

そうこうしているうちにわたしはもう30歳……。どうしてわたしだけって考えることが多くなったし、正直、結婚したい。

大学時代の友達はみんな結婚して子供をつくって幸せそうに見える。その友達には何で未だに付き合っているのって言われる。わたしだって自分の幸せを優先したいって気持ちがあるのは事実だけど、これまで一緒だった彼を見捨てるなんてわたしの弱い心がきっと許さない。

彼を見捨てることができない気持ちと自分の幸せを願う気持ちの狭間で先が見えない不安がわたしの心を狂わせていた。

夕陽がフロアに射しこみはじめてきていたのか、職員がブラインドの紐に手を掛けていた。そろそろ閉庁する時間なのにフロアの中は職探しの人達で混み合っていて、ほとんどの人が掲示板に張り出されている求人案内を見つめていた。

わたしが彼に代わって見つけてあげる職業は、給与が高く、仕事内容が比較的に楽、残業がほとんど無い、そして優しい上司と頼りとなる仲間がいる職場だ。どうせそんな職業ないだろうから、今日も一応はチェックをして家に帰るつもりでいる。

ひと通り確認したけど、やっぱりあるわけがなかった。どれも何かしらは彼の要求に応えられていない。そんないい職場が今の時代、いや、いつの時代だってあるわけがない。 

わたしは、大学を卒業してほぼ終身雇用といえる職を選んだので職安は縁の無いものだと安易に考えていたから、ここに来ている人には申し訳ないけど、人生への不安感が湧き上がってきそうで、しかも生きる大変さを思い知らされているようで、とてもキライ。

少しだけぼやけて見える文字に落胆し、鞄から取り出したハンカチを瞳に当てている横で職員が掲示板から古いものを外して新しい求人案内を張り出した。その中の一つに目を奪われたことに、他の人に知られないよう周りを気にした。

「あれ、これ…」

 そこに書かれていたのは彼が理想とする仕事じゃないかな。
はじめ見たときは本当にあったぐらいにしか思えなかった。普通、ありえないでしょ。

給料は他の求人票に書いてあるものより断然高い、仕事内容は事務補助、原則として残業は無、優しい上司、頼りなる仲間が待っているとの記述。そんなのあるわけないじゃんと思って、見つけた嬉しさと同時に怪しさの方が勝っている。

それでも……、そうだとしても……、
何でもいいから働いて欲しい気持ちが自然と彼に連絡をしていた。そして、他の人には聞こえないように……。

「ちょっとすぐ職安来て。いい仕事あったよ」

10分後、いつもだったらその案内のコピーを取って来てって言うだけなのに今日はちゃんと面倒くさそうな顔をしながらも職安に来てくれた――。
彼の手を引張り、求人案内の前まで連れて行き確認してもらう。仕事内容よりも働いてくれるかもしれない彼に期待したわたしは彼を説得した、

「この面接、受けてみて」

案内を見ながら、低い声で“んー”って言ったり、少し驚いたりしている。

「大丈夫かな?なにか裏がありそうだよ」

「大丈夫だよ!こんなにいい仕事ないって」

「でもさー、大丈夫?」

「きっと大丈夫だよ」

「でもさー、この案内、怪しくない?」

「こんな求人は他にないよ。きっと後悔するよ」

「そうかな……不安だよ」

いつものやりとりがはじまる。本当にいい加減にして欲しい。

まわりの人の視線を強く感じる。早く決断してほしい。

「じゃあ、ここにしなくてもいいから、何でもいいから働いて下さい。もう働く気がないのでしたら別れます。いい加減、本気です」

「はいはい。分かったよ。なんだよ。急に敬語で話したりして……とりあえず面接を受ければいいんでしょ。明日にでも電話するよ」

「今すぐ電話して」

彼を睨みつけ、わたしは自分のスマホを取り出し、記載されている連絡先に電話を掛け、逃げようとする彼の耳もとに力任せに近付けた。周りの人が、何やっているんだって顔で見ていたけど、気にしなかった。

「――分かったよ……。もしもし…あの――一之瀬といいますけど、そちらの面接にいきたいのですが…」

彼の口から発せられる悪気がない雑な敬語。正直に思う。こんな人を採ってくれる会社が本当にあるのだろうか、雇ってくれるとしたらその会社は相当な黒だよ。

わたしが、いつもよりも彼を説得することに力が入るのは、――子供が出来たから……単純な理由だけど、彼には正直言えない。

赤ちゃんが出来たから仕事に就く、定職に就く、頑張る人は世の中に大勢いるでしょ。だけど、そうじゃない。子供の所為にして自分の人生を決めて欲しくない。働いて欲しい気持ちを彼にぶつけることと矛盾しているけど……彼には自らの意思で働いて欲しい。

「――はい。分かりました。それでは明日、宜しくお願いします――。チーちゃん。面接は無いって、とりあえず明日から来てくれって。なんか、話した人すごく丁寧で優しそうな人だった。大丈夫そうかもしれない」

 いやいや明らかに怪しいでしょ。とりあえず働いて欲しいと願うわたしの本音とは逆のことを言ってあげる自分が悪い奴に思えてならない。いや。どう言い訳しても悪いやつだよ。

「大丈夫だよ。すぐに来てくれだなんて、もう期待されてるんだよ。求人が出たばかりのものにすぐ電話したからじゃない。やる気が評価されたのかも」

「そっかな。頑張ってみようかな」

嬉しそうな表情をしていると思うと少し可哀想な気がしたけど、仕方ないと自分に強く言い聞かせた。

彼が働き始めてから一週間が過ぎ、驚くことに彼の生活態度は明らかに変わった。

これまでの不規則な生活から、毎日朝の六時には起きて身支度を自分で整え、朝ご飯まで作ってくれる。それにゴミ出しも家の掃除までやってくれるようになった。今まで彼が何もしてくれなかったわたしにとっては嬉しい変わりようだけど、なんか頼りにされなくなった気もして、ちょっと寂しい気持ちもある。

それに疑問なのは、仕事が事務補助であること以外は企業秘密とかで絶対に教えてくれない。わたしにくらい教えてくれたっていいはずなのに。わたしが見つけた仕事が本当に彼のためになったのだろうかと正当化しようとする反面、なんだか怖いと思うようになってきた。

さらに、気になることが増えた。

それは彼の顔や手には擦り傷がつけて帰ってくることが多くなった。彼は自転車で転んだって言っているけど、家から会社までは自転車で20分程度。ずっと平坦な道だし危険なところはないように思う。というか明らかに嘘だと思う。嘘をつくことが昔から下手だったから分かる。

彼と出会ったのは、大学一年生のとき。彼は工学部の土木工学科、わたしも同じ学科で、授業も一年目は同じ科目を取ることが多かったから……何度か一緒の授業になっていて、段々と彼のことが気になりはじめていった。彼って、見た目もよいけど、何より優しい人だった。そこに魅かれたのかもしれない。

このエピソードだけで彼を好きになったわけじゃないけど、授業に遅れてしまったときがあって、受講生の多い授業だったから、案の定、席がほとんど空いてなく仕方なく座った窮屈な長机席に座ったら隣に彼がいた。

わたしが窮屈そうに縮こまりながら教科書を開いていたら、急に窮屈さが無くなって、あれって思って隣を見たら、椅子の半分しか腰を掛けていない彼がいたの。

――それから話すようになった。そのときだって、ちゃんと座っていいですよって言ったのに、ちゃんと座っていますって言っていた。それだけじゃない。夏休みが入る前にわたしから告白したら、いいよって言ってくれた。

そのとき、彼は既に付き合っている人がいるのをわたしは知っていたから他に付き合っている人はいないよね?って訊いたのに彼はいないって言った。彼は人を傷つけまいと優しいから平気で嘘をつく。

だから、彼が世の中のためにならない仕事をしているのではないかって、すごく心配……。わたしが見つけた?いや、わたしが選択したから申し訳ない気持ちの方が大きい。

§一之瀬千紘

チーちゃんが考えているような仕事をぼくはしていない。チーちゃんの顔を見ればぼくの仕事に対してどう考えているのか容易に想像できる。

ぼくの仕事は世間には立派な仕事ですと大きな声では言えないけど、決して悪いことをして稼いでいるのではない。今は仕方ないと思うようにしている。何故なら、仕事に対するモチベーションとか将来への展望だとか夢と希望に満ち溢れているよりも今の現実を直視して、一歩を確実にして行かないとぼくの精神は崩壊する恐れの方が大きいから。また、昔みたいに心がダメになってしまわないか不安もある。

そんなぼくだって一時は夢や希望を持っていた。大学を卒業して大手の建設会社に就職して3年ぐらい勤めてここでやっていけると考えられるようになったら、チーちゃんと結婚したいと考えていた。だけど、想定したよりも遥かに仕事は辛かった。怠けている、弱いやつだ、仕事をバカにしている、生きるってどれだけ大変なことかも分からない奴がってさんざん言われたよ。

でも、そんな言葉なんか耐えることができたよ。チーちゃんとの将来があったからだ。それなのにぼくの心に大ダメージを与える出来事が起きてしまった。

ぼくのちょっとしたミスで会社に何億円もの損益を与え、会社の存続に関わるにまで至ってしまった。まだ新人だったぼくのために上司は懸命に庇ってくれた。自分のチェックミスの所為だと、彼には責任は無いとね。その上司だけはいつもぼくのことを気に掛けてくれていて、何かと心配事とか仕事以外の事でも何でも相談に乗るぞって言ってくれていて、とても優しくて頼れる人だったんだけど。このことが原因で会社を辞めざるを得なくなった。

上司のおかげでぼくはその代わりに会社に残ることができた。その上司は会社を辞めるときにぼくに絶対に辞めるなって頑張れって、辞めたら自分に負けだぞって言ってくれたよ。

だけど、負けちゃったんだ。ぼくに対しての周囲からの嫌がらせがひどくなってきて、彼らから発せられる言葉の毒が次第に心を蝕んでいったんだ。そして、その頃だった、元上司が亡くなったと聞いたのは……。

ぼくだって、ぼくだって、ぼくだって、こんな人生で一生を終わりたいと思ったことは一度もない。何度も何度も自分を奮い立たせたよ。じゃあ、何で努力をしてこなかったのかって言うけど、何でも努力で解決できる程、この世界は優れていないんだ。努力だけでは解決できないものだってある。そう、覆せないものがあるんだ。

そんな世の中でも、チーちゃんには救われた。

もうすぐ30歳になろうとする無職の男にずっと傍にいてくれた。普段はチーちゃんに甘えるように生活しているけど、本当はチーちゃんに苦労はさせたくないって思っている。だからこそ、気持ちばかり焦ってしまう。今回の仕事だって、怪しいと思ったけどとりあえず今から抜け出すためのキッカケが欲しかったぼくにとっては今日の電話が来る前から心は決めていた。

そのチーちゃんとの出会いは大学一年目のとき、男友達の中ではちょっと人気がったチーちゃんが隣に座ってくれたことがある。かなり窮屈な席だったから、前日に夜ふかして朝寝坊。授業に遅れそうなっていてお風呂に入ってないことを悟られたくなくて必死で空間をつくったんだ。嬉しいことにそのときのことがキッカケで話す機会が増えていった。その後、チーちゃんが告白してくれたときだって、ぼくには付き合っている人がいるって友達に言っていたから、告白されるとは想定していなかったので、とても嬉しかった。

チーちゃんと話すことはできるようになっても自分から告白できないぼくは、当時、携帯ゲームの恋愛シミュレーションにはまっていて、ゲーム上で彼女をつくることができて、毎日の彼女との恋愛が本物の恋のように思えてならなくて、本当に付き合っている人がいる風に自分を誤魔化していたんだ。だから、ついつい、付き合っている人がいるなんていう訳の分からない嘘を友達に言っていたんだ。でも、チーちゃんがそれを分かっていて告白してくれたのだとしたら……。今回の仕事もそうなのかもしれない。

会社に電話をした次の日のこと。

はじめて職場に足を踏み入れた。港近くにある小さな倉庫のような事務所。外は秋晴れで暖かいのに、事務所の中は太陽の熱を通さない厚い壁で覆われているのか、とても寒かった。玄関前には、小林コンサルタントと書かれた古ぼけたアクリル質の看板が掲げられていた。所員は皆、それぞれの個室で業務を行っており、昼食も含めて所員同士の会話はほとんどないらしい。仕事環境は求人案内とは多少違うとは想定していたけれど、大きく違う印象を受けた。

上司となる小林さんはこの会社を興して20年。

20年前の新入社員で残っているのは一人もいないらしい……と言っても所員はぼくも含めて五人の小さな会社だ。

今回、新たに求人をすることになったのは、辞めてしまったぼくぐらいの歳の男性がいたらしく、それで急遽、求人を出したそうだ。

そして、小林さんや同僚となる方達の仕事振りを見て全ては自分でやらなければならいと痛感した。それぞれに担当が決まっていて、一人でこなしていく必要がある。上司の小林さんは何かあったときに助けに入るための存在で、新人だからといって自分のためにすぐに助けに来てくれるわけじゃない。基本的に自己で処理をして完結する仕事だ。まったくもって、事務補助なんかではない。

その日の帰り、前任者の仕事マニュアルを公園の外灯の下のベンチに座って読み、隅から隅まで頭に叩き込んだ。今日は金曜日のためか公園の周囲に点在している居酒屋に仕事帰りのサラリーマンが多く入っていくのを見かけた。

そういえば、居酒屋にはもう何年も行っていない。いや、行ってもぼくの気持ちを慰める程度にもならない。昔といっても、大学卒業して就職した会社では、ほぼ毎週のように上司に飲みに連れていってもらっていた。逆にお酒が心を蝕む可能性だってあるのかもしれない。

そんなことも考えさせる公園のベンチだったが、それよりも再来週からはじまる戦いに負けるわけはいなかった。だからこそ生活態度を改めることを決心した。初めての週末には伸ばしていた髪を切り、スーツはクリーニングに出し、それから家の掃除もやって、まずは形から心を入れ替えることにした。

この月曜日からの1週間は上司の小林さんの指導のもと業務をこなした。

他の所員が行った業務内容をチェックするだけだったけど、チェックする項目数が多く、それだけ、普段の業務量の多さが感じられるものだった。

それも、前任者が作成したマニュアルもあったため乗り切ることができた。乗り切る程度だったので大きな成果を得ることはできなかったけど、大きな失敗も無かったように思う。

ただし、来週からは一人でこなさないといけない。しかも、他人がやったことのチェックではなく、実際に自分が中心となり、依頼者との契約内容の基に忠実にこなしていく必要がある。この仕事に要求される繊細さを考えると家にいる今から緊張してしまいそうだ。――チーちゃんに気付かれないようにしなければならない。もし知られたら絶対に心配して、他の仕事を探したらって優しい言葉をかけてくれるに決まっている。とそう願いたいが、違うと感じるのも事実だ。

初めて一人で業務をこなす1日が始まった。

隣で寝ているチーちゃんを起こさないようにして、台所に立ち、食パンにピザソースをかけ、その上にチーズを載せてトースターに入れる。出来上がる前に珈琲を淹れる。すると、チーちゃんが起きてきて、パンが焼き上がる頃には2人で同じテーブルがある椅子に座る。

「1週間頑張ったね」

「うん。とりあえずなんとか」

「事務補助って、具体的にどんな仕事なの?」

「ん?普通の事務だよ」

「ふーん」

明らかに怪しんでいるのがチーちゃんの表情から分かる。事務で顔や手に擦り傷なんかつくわけがないんだから……。

「企業秘密だし守秘義務もあるから、チーちゃんにも詳しくは言えないんだ。――ごめんね」

「――いいけどさ。てか、いつもより食べ終わるの早いね」

少しだけ緊張している所為なのかもしれない。今日からの仕事をこなせなければ、辞めることになりそうだし、そしたらチーちゃんとの将来が消えてしまいそうだから。

準備を整え、ぼくは少しだけ早めに家を出た。

「いってくるね」

「いってらっしゃい!残業せずに早く帰ってくるんだよ」

「はーい」

築20年のアパートの玄関を閉め、駐輪場に向かう、いつも通り鍵を外し、自転車に乗り港の方に向かって20分間ペダルを踏む。風が当たる手や顔が冷たく感じる季節になった。

会社に着くと、すぐに更衣室に行き作業服に着替えた。するとそこに小林さんがいた。

「おはようございます」

「おはようございます。今日は少し早いですね。今日から一人での作業となりますが、宜しくお願いしますよ。危なくなったら、すぐ私を呼んで下さい」

「分かりました」

「では、始業開始時間になりましたらマニュアル通りに進めて下さい。ご健闘を祈ります」

いよいよぼくの仕事の記録が開始される。個別に設けられている個室に入り、作業用の椅子に座る。静かに長い深呼吸をした。段々と意識を集中していく。

§小林勝利

入社して早々、彼には申し訳ないが、辛い仕事をしてもらうことになる。上司として、説明と違う仕事をしてもらわなくてはいけなくなったことに対しては申し訳ないと思っている。だが、これはある意味、入社試験のようなものだ。これを解決できなければ彼にはこの仕事を続けることはできないだろう。私だって成功させてきたんだ。

この会社を立ち上げて約20年。優秀なエンジニアのおかげで、仕事を軌道に乗せることができた。現代の世の中、一度でも人生の軌道から逸れると同じ軌道に戻ることは簡単なことではできないと言われている。途方もない努力と時間と運が必要となるだろう。人生に失敗は許されない。

ただし、それも同じ軌道でなくても違う軌道に乗ればいい。いつまでも脱線したままでは先に進めることはできない。前に進むかそのままでいるかは本人の意思次第でどうにでもなる。

一方、脱線するリスクを減らそうと考える方もいる。そういった依頼人のために私の会社は生まれた。ユーザに代わって人生をシミュレーションするのだ。人生のリスクとなる要因を見つけ、最善の対応方法を提案する。また、シミュレーションだけではない、社会から集めた大量のデータを活用して、対人対応の技術や心のケアにだって対応が可能となっている。

彼の前任者が辞めて、人が足りなくなり急簿を行ったのだが、通常、あの案内を見て興味を思って電話をしてくる求職者はいるが、9割9分は1週間の研修で辞めてしまう。彼のように、続いているのはかなり珍しい。

彼の彼女が言う心を病んだとは真実なのだろうか。

§データログ 10月1日

「おい!逃げるぞ!」

 ?

「いいか、全速力で次の宿場まで走る」

 何言っている?

「聞いているのか?」

 ?

「おい!もう時間がない」

 背後の林の方から、数人の男の声でどこへ行ったって叫ぶ声が聞こえてくる。

「ここは?」

「何を言ってるんだよ!来たぞ!走るぞ!」

 背後から人の気配が迫って来た。

「おーーい!ここにいたぞ!」

「お前が早くしないから、こういうことになるんだぞ」

ぼくの横いるこの男は腰に差してあった剣を抜いた。初めて見る剣という剣。本物なのか?

理解できないが、依頼先が間違ったのだろう。ぼくが今日から仕事を受けるはずだったのは、高校1年から一流商社に入るためのシミュレーション。約3カ月掛けて行う仕事だ。

すぐに緊急用の呼び出しボタンを押す。

小林さん!聞こえますか!伺っていた仕事の内容と違うみたいなんです。不具合ではないでしょうか?――脳に直接響く声……。

「一之瀬くんに受けてもらう仕事ですが、急ではありますが変更になりました。申し訳ありませんが、今行っている仕事をお願いします。特にマニュアルなどはありませんが、自分が思うままに行動して下さい。それが依頼人からの要望です」

大丈夫でしょうか?今だって、襲われていますけど!

「死ぬことはありませんので大丈夫です。そんな大した仕事ではないようですのでお願い致します。いつも通り、午後の5時前には呼び戻します。それでは宜しくお願い致します」

「何ボケっとしているんだ!逃げるぞ。いくぞ!」

その男は走り出した。ぼくも男の斜め後ろに付いて全速力で走り出す。

ちょっと走ってるだけなのに息が苦しい、、

「奴らは何者なんですか?」

「役人だよ」

「役人に追われるようなことしたんですか?」

「お前、頭おかしくなったのか!話すな、いいから走れ!!」

背後を確認すると、三人の男が後を追ってくる。でも追いくようには思えない。ぼくらの方が速い?いや違う。役人は重そうな鎧をつけている。

その中の一人が手に持っていた槍を投げて来た。

投げた瞬間、別の役人が槍を投げた男に制止を促した。

「槍を投げるな!もし、当ったらどうするつもりだ。捕まえればいいんだ」

投げられた槍はぼく達に当たるわけがなく、地面に重い音を響かせた。

きちんと整備されていない道をひたすら走った。こんなに走ったのは高校の授業以来だ。

おそらく30分後くらい経ったと思う。背後から迫ってくる気配も無くなり、無事に逃げられたことを確認した。そして、近くの宿場に身を潜めた。

男に話しを訊こうとした次の瞬間――。

「やっと、ここまで来ましたね、こんなに綺麗なところだとは――」

へ?

「そうは思いませんか?」

さっきいた場所と状況が変わっている。

「何も遠慮することはない。思ったことを正直に話せばいい」

どうなってる?システムの誤作動?小林さん!

「大丈夫ですよ。何も異常はありません」

場所が変わったんです!こういうこともあるんですか?

「ありますから安心して下さい。一之瀬くんは普通にこなして頂ければ大丈夫です」

明らかにおかしい。どうなってるの。やっぱり、まずい仕事だったのかな……。

「私はそんなに遠い存在ですか?そう思われていたのでしたら少し寂しいです」

一方的に話し続ける女の子。周りに広がるエメラルドグリーンという名に相応しい海。何を応えればよいのか正解が分からないけど、適当に答える。

「そんなことないですよ」

「そうですか。そう言って頂けると嬉しいです」

そう言うと静かに瞳を閉じたようだった。

「申し訳ないのですが、何でここにいるのでしょうか?」

「一緒に来たからです……」

ん?

「おい!大丈夫か!」

ん?目を開けると数10分前に身を潜めていた宿場の中にいて、男が必死に声を掛けていた。

「――大丈夫です」

「急に意識を失うんだからどうしたのかと思ったぞ。今、外に出たら見つかる可能性が高い。今日はここで休むぞ」

「はあ……」

よく分からないまま返事をした。

ぼくは正直に自分の置かれた状況を男に説明した。

男は安島というらしく、ぼくに対しいつものぼくではないことに疑問を抱いてはいたが、事の顛末を話してくれた。

ぼくと安島さんは国の財政部門に勤める平役人で、安島さんがぼくの2年上の先輩らしい。そして、今、ぼくがいるこの場所は隣の国になる。

この国に入った理由は、この国がぼく達の国と違い、財政的に健全で借金が無く、裕福な暮らしをしている民が多いらしく。その理由の調査を行っていたらしい。このぼくがいる時代は現代と違い、国といっても大小様々で、おおよそ約三十キロメートル四方程度だそうだ。それでいて、国同士の付き合いは殆どない。何故なら国の秘密は他国にとっては有益なもので、そのことが原因でやがては国同士に争いが生じ、片方が滅ぶか、互いに自滅する恐れもあり、互いに干渉しないのがこの時代の暗黙の決まりとなっていると安島さんが教えてくれた。

ちなみにぼく達の国は湯谷国という。隣の国は豊国というらしい。言葉通りの豊かさなのかもしれないと思ったけど口にするのはやめた。

そんな中、豊国の中心都市で住民に聞き取り調査を行っていたことが怪しまれたのか、誰かの通報によってバレてしまい。この国の役人に追われることになったのだ。捕まれば多分、帰ることはできない。

「まずは、本国に連絡しなければ。その後、戻る方法も考えなければならないな……」

「連絡といっても、スマホは無いからね……」

「スマホ?なんだそれは」

「あぇ、違う。なんでもないです。それより、ここから国の境界までどのくらいですか?」

「お前、そんなことも分からないのか」

「すみません。逃げるときに転んで頭を強く打ったらしくて、どうも調子がよくないのです」

「だいたい、歩いて6時間くらいだろ、走れば少し短縮可能だがな」

「六時間ですか……走るのはちょっと」

「まずは、事態を報告しなければならないから、本国との連絡で使っているポイントまで向かうか、二時間ぐらいだな」

「2時間か……遠いですね」

「気づかれないように今日の夜中出発しよう」

「分かりました」

 夕方から出発するまでの間、仮眠をしながら何故、こうなったのか考えてみる。

そもそもこれを依頼した人物はどういうつもりで依頼したのだろうか、過去と思われることをシミュレーションしたところで、未来の結果は分かっていることで、このシミュレーションが歴史を変えられるわけではない。

他国の情報を盗もうとするくらいだから、湯谷国というのは相当、財政的に苦しい状況なのだろう。依頼人はこの湯谷国という国に関わり合いがある人物で、――もしかしたら湯谷国という国は滅んだのかもしれない。その謎を解き明かしたいのかもしれなかった。いずれにしろ、ぼくはこの仕事を指示されるがままに適当にこなし、最良の結果を見つけ、報告することだ。

「起きろ。身支度したら出るぞ」

「はい。分かりました」

緊張と慣れない環境で休憩らしい休息は取れなかった。

静かに宿場の裏口から出て、本国との連絡ポイントまで向かうのに宿場の裏山を抜けていく。裏山は結構きつい登りが続いていて、走ることはおろか、登るのに手を使わなければならないくらいで、しかも足元を照らす光も無いから足を踏み外したら奈落の底に突き落とされる可能性がある。

途中、警戒にあたっている豊国の兵士らしき一団を見つけたが、安島さんの案内により上手くすり抜け、目的のポイントにちょうど2時間程度で着いた。

「くいーん」

安島さん何を言っているのだ……もしかして合図?

「まさか、合図ですか?」

「そうだろう。これ決めたのはお前だぞ」

「えぇ……」

 ん?急に気配が感じたかと思うと、暗くてよく見えないが、男の声が聞こえた。

「くいーん」

続いて、安島さんが慣れている感じで話しはじめた。

「調査に失敗しました。すぐに戻りたいのですが、警戒にあたっている兵士の数が多いです。なんとかならないでしょうか」

「お前達が調査の途中で、役人に追われ、ちょっとした騒ぎになったのは湯谷国にも情報が入ってきている。境界付近は豊国の兵士が多くいる。もし、お前達を湯谷国に戻そうとすると、小競り合いが起きる可能性がある。事が落ち着くまでは帰れないと考えていた方がよい」

「上は、大体どのくらいの期間をみているのでしょうか?」

「3カ月ぐらいだな」

「3カ月も」

 ぼくはついつい口を出してしまった。

「一之瀬か、今回は大変だったな」

 この男もぼくのことを知っているようだ。

「失礼ですが、どなたでしょうか……」

「安島!いったい一之瀬はどうしたんだ」

「私も良く分からないのですが、記憶を忘れてしまっているらしいのです」

「そうか……良くなるといいな」

「――すみません。ご迷惑をお掛け致します」

 その男は安島さんに3カ月生き抜くための資金を渡たした。

「では、これで。国境を越えられる状況となったら、こちらから連絡する。安島、一之瀬、死ぬなよ」

 二人で次々に発した。

「あぁ」

「はい」

 別れた後、また、同じ道を戻り、宿場の裏口を静かに通り、明け方前には布団に戻った。

 段々と意識が現代に戻っていく……

「一之瀬くん戻りましたか」

 意識が現代に戻って来た。

「今日の業務はこれで終了です。お疲れ様でした」

戻ってくると、時刻の針はちょうど五時を示していた。お昼ご飯も食べずに働いていたのだ。それに、少し顔や手が痛むと思ったら、擦り傷がついている。

「小林さん。この業務ではシミュレーションする世界での傷がそのままなのですか?」

「はい。実はそうなのです。こればかりは改善されていないんです。将来は、安島くんにこのシステムの改良をお願いしたいと考えています」

傷がつくということは、ぼくが死ぬ可能性だってあることを意味しているんじゃないのか。安易に返事はしたものの。今更、危ない仕事に手を出したことに改めて思い知らされた。

「はい。分かりました。将来ですね!頑張ってみます」

§11月1日

この業務を開始して、早くも1カ月が過ぎた。シミュレーションの世界では、相変わらず、湯谷国に戻ることはできずにいる。それどころか、今回のぼく達が犯したミスが国境線を完全に封鎖される形となり、身動きがますます取れなくなっていた。毎日、毎日、宿場で過ごす日々で退屈となっていた。

退屈な日々の中でも、現代との違い多くがあり、発見がいくつかあった。

剣を身につけている人が性別を問わず多くいることだ。宿の従業員に話しを聞くところによると、現代にいう警察組織が存在しておらず、国の兵士がその役割の一部を担っているらしいが、そういった治安維持を担う組織が少なく、また人員も少ないとのことだった。そのため、町には自衛組織がつくられ、男女問わず構成されている。

「一之瀬!何見ているんだ」

「ここから街道を通る人達を見ていたのですが、皆、腰に剣を差しているんです」

「当たり前だろ。自分の身は自分で守る。当然だ」

「自分の身は自分で守るか……ぼくが住むところとは違うんだな」

「何言っている。他力本願では命がいくつあっても足りないぞ」

自分の身は自分で守るのがこの場所で生きる人の考えらしい。そして、町には必ず剣術を習う道場がある。町が落ち着いてきた2週間程前からぼくも通うようになった。

「一之瀬くん。今日も宜しくお願いしますね。最近はシミュレーション上での大きな動きがありませんので、依頼人より、もう少し豊国内の状況調査をするよう指示が出ております」

分かってはいるけど、このシミュレーションの方向性が示されていないのにどうすれば良いものかと考えてしまう。

「このシミュレーションでは何をするのが目的なのでしょうか?それが分からないと私もどういう行動をとればよいか悩むことが多くあります」

「そうですね……そのことについてですが、私も知らされていないのです。ただ、今は一之瀬くん自身の体力と剣技を身につける必要があると考えています」

「はい……分かりました」

いつものように業務用の個室に入ると、作業用の椅子に座り静かに瞳を閉じた。

またたく間に眠気に襲われ、気がつくといつもの世界に意識が移った。

「木島さん。ここにずっといても何にも進展が生じないのではないでしょうか。せっかくですし、この国の状況をもっと探りませんか」

「だが……。それでは俺らの動きが目立って危険が伴う可能性がある」

ぼくは小林さんの指示のもと、動く必要があることから安島さんと暫く行動を別にすることを決めていた。

「では、別に行動しましょう。落合うときはこの宿場を使う。それで如何でしょうか」

「そうか……」

「何か問題が?」

「そういうわけにはいかないんだ」

「大丈夫ですよ。この2、3週間でぼくも少しは体を鍛えましたし、走るのだって慣れましたよ」

「そうじゃないんだよ」

――まさか、一つ脳裏に過ったことがある。これまで、食事から宿泊代まで全で安島さんが支払っており、基本的に資金の管理は安島が行っている。

「まさかとは思いますが、お金を使ってしまったとかはないですよね?」

 ――あたりだった。みるみる顔色が変わっていく。

「そのお金は公金ですよ!あと、少なくとも2カ月はこの国にいなければならないのに、どうするんですか」

「いや、大丈夫だ。一人だったら生きていける」

次の瞬間、一之瀬さんの左側に置いてあった剣を引き抜き、ぼくに目掛けて斬りつけて来た。

空を切った。

「何考えているんですか」

安島さんの鞘から走り出た鋭く尖った鋼を避けることができた冷静な自分がいた。

「前の奴は一振りで仕留められたのにな」

「何を言ってるんですか!」

「公金に手を付けたのは一之瀬、お前の仕業として本国に報告するんだよ」

「今ならまだ間に合いますよ!」

強張ってはいるが、焦ってはいない。なぜか冷静だ。

「間に合うものか、公金を私用に使った時点でクビは間逃れないんだよ」

「同僚じゃないんですか!ぼくも一緒に説明して謝りますよ」

「お前はつくづくお人好しだな……でもな、現実は違うんだよ!」

これまでの1カ月の間にぼくは成長したということなのだろうか。死ぬかもしれないのに、目の前に危険因子に冷静に対応をしている。自然と小林さんを呼ぶこともなかった。

決して安島さんに剣を向けるようなことはしない。

1週間ぐらい前から安島さんの行動が怪しいと感じていた。

いつ、このようなことが起きてもいいように対応を考えていた。壁に掛けていた剣を手に取り、戸を蹴破ると一気に外に走り抜けた。目指すは裏山にある本国との連絡ポイントだ。

「おい!逃げるな」

途中に準備をしていた靴に履き替え、一気に駆け抜けた。安島さんの声が遠くから聞こえていたが、次第に聞こえなくなった。

逃げることが一番いい。全てから逃げれば争わずに済む。

ぼくが前の仕事を辞めたのだって、争いをしたくなくなったのが本当の理由だ。ぼくがミスを犯したんじゃない。同僚が犯したんだ。けれど、その同僚だけに責任を押し付ける訳にはぼくの心情が許さなかった。誰だってミスはする。まったく関わり合いの無い仕事でも無かったから、ぼくもミスを犯した一人として手を挙げたのに、責任はぼくに向かった。目の前のことから逃げていればあんなことにはならなかったはずだ。

同僚の男を卑怯だと思ったと同時に可哀想な奴だとも思った。大学を出て就職した先で人生の一生が決まるかのような風潮は違うと思う。その同僚だって生きるのに精いっぱいだったに違いない。もしからしたら自分の意思とは別のなにかが彼をそうさせたのかもしれない。

§安島和希

一之瀬の前は別の奴が来ていた。一之瀬とそう歳は変わらなかった。公金を私用として使い込んだことがバレたため、俺は奴を殺した。

そして、1カ月前に一之瀬が新しく来たんだ。この世界を変えようとする何かなのかは違いないが、俺には関係ないことだ。そんなことより、前の奴より弱そうな奴だったから、今回も同じ運命をたどると思ったよ。それがだ……一之瀬は俺の行動を予測していたように俺の攻撃をかわして、逃げ切ったよ。全速力で逃げた。

俺と一之瀬の役目は、この豊国を調査することだったが、それは表向きの理由で、本当はこの豊国にいる姫と湯谷国の王子を結婚させるために、姫とコンタクトを取り、秘密裏に湯谷国に連れて帰ることだった。はっきり言って拉致だ。

恐ろしい任務であり、平穏の隣国関係を壊す行為に違いない。
けれど、役人である自分には歯向かうことなんてできない。

一之瀬は本来の役目に気付いていないようだった。

別に本当のことを伝える必要は無く、このまま2ヶ月が過ぎてしまえばよいと考えてしまった。

俺は、公金をギャンブルに使ってしまったのが本国に発覚するのもそう遠くないだろうから、遠い他国に逃げることにする。これで俺の役目も終了だ。意識を失うとまた時間が戻ることを繰り返す変な体質だっただけに、これでやっと、時間軸が本来の形に戻ってもらいたい。

ちなみに余計な事だが、一之瀬千紘はこの時代には珍しい人間だと俺は思う。殺そうとした自分が言うのもおかしいが、優しく強い。人を傷つけようとは絶対にしない。争いを好まない。あいつはこの1カ月で俺よりも強くなったはずだから、返り討ちにすることだって可能だったはずだ。

今後、それが一之瀬にとって命取りにならなければ良いと思う。それに一之瀬自身が本来の自分に気づかなければならない。それが俺が言える最後のアドバイスだ。以上。安島和希、記録を終了する。

§12月1日

あの事件から1カ月が過ぎた。逃げ切ったぼくはあのポイントで本国と連絡を取り、あと1カ月を過ごすのに必要な資金を得た。また、資金をもらったときに本国から業務内容を伝えられた。

“姫を連れ帰ってこい”それだけだった。

そんなことできるはずがないと言ったが、できなければ一生帰ることはできないと言われた。リミットは12月31日まで、約1カ月しかない。小林さんからも業務を遂行するようにと言われた。

今、ぼくは、当初逃げた宿場とは違うところで作戦を考えている。

姫は豊国の中心にある都市にいる。

詳しい場所も分からない。どうしようもない。

どこかのドラマに見たいにたまたま遭遇するなんてこともないだろう。

「一之瀬さんはいらっしゃいますか?」

本国から新たな連絡が来た。

それは、ぼくの上司となる人物が死亡したとの連絡だった。

間違いなく、安島和希の責任を取らされてのことだろう。事故か自殺かは書かれていなかった。早く、姫を連れて帰れの文字が最後に記載されていた。

安島和希を救えなかった上に、上司を殺してしまったのかもしれない。

現実の世界でもぼくは二人を救えなかった……同じことの繰り返しをしているようで、すごく嫌な気分になった。

§千尋の想い

彼が仕事を辞めずに3カ月が過ぎた。3カ月も続いている仕事は彼が心の病で辞めた最初の会社以来だけに本当に良い職場なのかもしれないと思うようになってきた。それに彼は相変わらず家のこともちゃんとやってくれる。実はわたしの勘違いなのかもしれない。顔や手の傷も最近は見なくなった。

ようやく人生の軌道に乗った気がする。この軌道に乗るまでにこれまでの傷痕は必要だったのではないかって思えるようにまでなった。なのに、たまに見せる彼のひどい疲れ方が少し気になり始めていた。

「疲れてない?大丈夫?」

「大丈夫だよ。今が一番重要なところで、この仕事をやり遂げなければならないって使命感みたいなものが湧き上がってくるんだ」

彼の仕事は年末が一番忙しいらしく昨日は帰って来たのは深夜の2時だった。今日は31日の朝だというのに疲れた顔をしながら今日もいつもの時刻通りに玄関の戸を開け職場に向かっていった。――残業は無いって言っていたのに。

一人で過ごす大晦日。昨年は面倒くさがる彼を無理やり布団から引っ張り出して家の掃除を一緒に行い、夜は年越し蕎麦を食べたんだっけ……。今年は一人で年を越すことになりそう……。

年を越しても彼はまだ帰って来ない。やっぱり、一人で迎えることになった。寂しい部屋の中を見渡すと、彼が心病む前に撮った写真があった。改めて見ると二人とも老けたな……。彼が心を病んでから約6年の月日が経ったけど、この部屋は一緒に住み始めた頃から何一つ変わっていないことに気付いた。わたしが大学に入ってすぐお父さんが心臓病で死んで、今度はお母さんに癌が見つかって、半年くらい看病したけどダメだった。わたしが帰るべき家が無いことを知っていた彼は、年末年始は実家に帰らず、必ずわたしと過ごしてくれた。そんな優しさがある彼だからこそ、これまで一緒に歩むことができたのだと思う。

わたしって自分勝手だよね……彼が仕事をしなければ彼を恨み嫌いなり、彼の仕事が順調になってくれば、彼に縋ろうとして彼のことを好きである自分を思い出そうとする。お父さんお母さんはこんなわたしはダメって思うでしょ机の引き出しから取り出した10年前に撮った家族写真を見ながらお父さんとお母さんに話しかける自分がいる。

自分の心が不安定なときに二人の笑顔を見ると落ち着くから……。

二人の笑顔から昔の想い出が蘇ってくる。やさしい風が吹き抜ける港が見える丘の展望台、緑色をした鮮やかな葉や異国の香り漂う瑠璃色の花が舞う中でわたしはそれを手に捕ろうとするが、青空いっぱいに広がり遠ざかっていく花を見つめる。

次第に蘇る記憶。この物語は何?わたしと彼は運命なの?これまで歩んだ人生は全て偽物?――怖いけど、目に見えているものだけが真実ではないよね。

本当の真実はこの世界には存在なんかしていない。わたしは偽物だ。

§1月1日

業務の完了報告をしなければならない日がきてしまった。なのに、結局、何も出来ずにこの日を迎えてしまった。提示された条件をクリアしていない。きっとシミュレーションは失敗だろう。ぼくにとって最初の仕事は失敗だ。

小林さんからは次を頑張ってもらえれば良いとだけ伝えられ、年始の為、休むよう伝えられた。依頼人から報酬を得られたのか確認したら、ぼくが安島さんから逃げ切ったことだけは評価されたらしいことを話してくれた。何故ならぼくの前任者は、安島さんに殺され、辞めざるを得なくなった……

もちろんバーチャルの世界だけど。

チーちゃんには言える仕事ではない。せっかく見付けてくれたチーちゃんのためにもぼくは頑張るんだ。この仕事の目的がなんなのか分からないことが不安だけど。

それから半年が過ぎ、今の仕事に引き続いて就いている。一番最初の仕事からいつくか仕事を行ったが、危険なものはなく。依頼人に代わって人生のキーポイントとなる部分のシミュレーションの依頼を受けることがほとんだ。

そんな簡単な仕事ばかり日々も長くは続かない。

また、同じ依頼が来たのだ。今度こそ姫を湯谷国に連れ帰ることだ。

うちの会社も安易に仕事を引き受け過ぎだ。いや、その前にこの仕事の意味や本質はなんなのだろう。姫を湯谷国に連れ帰る意味。帰る……何故帰ると言っているのだろう。帰るというのは行き先がないと帰るとは言わない。ということは豊国にいる姫は、元々は湯谷国の出身なのだろうか。

次に結婚させることのシミュレーションが何の結果が得られるのだろう。以前、小林さんに訊いたときには、依頼人が判断することなので、答えられないとのことだったが、過去のことに対して依頼する必要があるのだろうか。仮に歴史研究家だとすると、歴史に“もし”は存在しないのだから、相当の歴史マニアぐらいだろう。実は過去ではなく。

何千年後も先のことを予見しているのかもしれない。シミュレーションを行う上での具体的な情報は依頼人から齎される。よって、そう考えると依頼人は未来の人物?――いや恐らく違う。未来を予見しているだけに違いないただのマニアな人に決まっている。

「小林さんがこの依頼を引き受ける理由を教えて下さい」

「何を言ってるのですか。報酬がいいからに決まっているじゃないですか」

「ぼくが訊いているのは、仕事以外の別の理由です」

「それは――あるわけないですよ」

小林さんは笑いながら答えてくれた。そして、一つだけヒントらしいことを教えてくれた。この依頼は私達の未来を映し出しているそうですよ。

「一之瀬くんにお願いするのは、安島さんと別れた後から豊国の姫を連れ帰るところまでです。2ヶ月間しかありませんが、宜しくお願いします」

「分かりました。今度こそ頑張ります」

「業務を開始する前に一つ質問いいですか?」

「あ、はい。なんでしょうか」

「一之瀬くんには彼女さんがいますよね?」

「はい。いますけど」

「お節介かのことなのかもしれませんが、そろそろ結婚を考えている頃でしょうか」

「まー、それなりにですかね」

業務開始前にどんな関係があるのだろうか、まさかとは思うけど。小林さんに言われると何故か、全てを見透かされているようでドキッとする。まさか、チーちゃんがあの家からいなくなったのを知っているのだろうか。

チーちゃんは、1月1日にあの家を出ていった。

そして、連絡先も分からないまま、消えてしまった。
部屋の中には、チーちゃんの痕跡は全くなくなった。

他に行く場所はないはずなのに…ぼくの元から消えてしまった。ぼくが安定した仕事に就き、これから新たな人生がスタートすると考えていた時期だけに、チーちゃんが消えてしまった理由が未だに分からなかった。

§姫を連れて帰る計画

まず、はじめに姫が住む都市で役人に気付かれないように住民や行商の人達に少しずつ姫ついて訊いて回った。その際、前回の教訓を生かし、服装を変えた、ぼくはもともと身長が男性の平均身長よりも高くない上に女性みたいな顔つきであることを活かして、恥ずかしくも女装をした。本国との連絡手段に使っている行商の女の子を真似たのだ。

すると、姫が年に2、3度、街中にあるアクセサリーや宝石を多く販売している商店が多い通りを視察していることが分かった。視察といっても公のものではなく、私的要素が強く、供の数も少ないらしい。ただ、ここ数カ月は顔を見せていないらしく。2ヶ月の間に顔を見せる可能性が極めて低いとのことだった。また、本国が言う“連れ帰る”の意味が分かった。それは、10年前に継ぎがいなかった豊国に養子として湯谷国から秘密裏に送り込まれたことが分かった。財政的に豊かな豊国から見返りに多額の資金が送られたらしい。その姫を連れ帰るなんてことでもしたら、戦争となるに決まっている。誰が考えても間違いない。

仮に姫と接触することができても、供の数から考えても説得し逃げ切る可能性が限りなく低い。国境付近まで本国の兵士を配置してもらうにも、ここから国境まで十キロメートル以上ある。

やるなら一気に行うしかない。馬を隠しておいて、姫に説得を試みる。納得されれば姫を連れて一気に駆け抜ける。納得されなければ姫には一時的に眠ってもらうしかない。どちらかに掛けるしかないにしても血を流さないわけにはいかない。それに、失敗したらぼくはこの世界で死ぬだろう。この世界で死ぬということは、現実にはぼくの前任者同様に使いものにならなくなる。

本国に作戦方法を伝えた。

作戦の日には国境付近まで兵士を配置する。それだけだった。

それから、本国から帰還に必要となる資金とある物を届けるよう依頼した。

本国は実現可能性が低く、仮に成功してもその後に待っている事実を把握しているのだろうかと疑問に感じる。これが現実ならぼくは手を出さないが、でも今は仕事で、依頼人からの指示だ。

それから、来る日も来る日も姫がいつ視察を行うのか、その情報を求めた。

最初の依頼のときには、方法が思いつかないしか口に出していなかったが、恥ずかしながら女装をしてでも何かをつかみたいと強く思えばなんとかなるものだ。姫が視察を行う日が分かった。明後日の午前。場所はラピスラズリ通り。瑠璃姫と呼ばれる由縁の通りだ。

このラピスラズリ通りは、別名で瑠璃姫通りとも呼ばれるらしい。姫が豊国に来た際に湯谷国が原産であるラピスラズリを懐かしく想い新たにつくらせたそうだ。なので、ほとんど商店ではアクセサリーなどの宝石類を扱っている。この情報がなければ姫の帰還の方策を考えるにも至らなかったに違いない。

§決行の日

ラピスラズリ通りは全長にして約100メートル、幅は10mはある。通りの最終付近で行商に紛れて本国でしか取り扱っていない瑠璃石のアクセサリーを並べる。ラピスラズリ通りをつくらせるくらいだから、きっと気づくだろう。そこで供の目を背きつつ姫を説得する。

集めた情報によると、供は三人程度、姫は深いフードを被り、顔を隠しているらしい。

――来た。

明らかに周りの買い物客と身にまとっている雰囲気が違うため、すぐ分かる。

静かに目の前に来るまで、緊張した身体を整えるためにゆっくりと深呼吸をする。

少しずつ近づいてくる姫にこれから行う最後の大詰め……やるしかない。

後、10メートル……そして……

「瑠璃石は如何でしょうか?湯谷国のもので、とても良い品ですよ」

「ちょっと見せて」

こちらに近づいたところを供にバレないよう伝えた。

「私は湯谷の一之瀬と申します。本国の命令で姫を迎えに上がりました」

姫の顔を拝見してハッとした。

自分に似ていたからだ。

「え?」

「姫様どうなさいました?」

供の若い男が姫に近づいて来る。

「いえ、何でもありません。湯谷の瑠璃石があるものですから」

「そうでしたか」

供が後に下がる。

姫は自分と似ていることを気にする素振りを見せない。

「帰ったら戦争になるに決まっている。そんなことできるわけがない」

「本国は承知済みです」

「時間がありません。ご決断下さい」

「決断するのは私だけではない。一之瀬。お前もです」

「え……、ぼくは覚悟はできています」

姫の言っている意味の本質が分からない。姫を連れて一気に駆け抜けなければならないのに身体が固まってしまった。

「わかった。国に帰るぞ」

姫は供の者達に少し離れるからここで待っていろと言うと、ぼくと馬を置いた場所まで走ると、慣れた手つきで馬に乗り、ぼくを後に乗せると一気に国境まで駆け抜けた。

ここからが時間が無い。

「姫様。国境まで走ればなんとかなります。国境には味方の兵士を配置しておりますので、暫くご辛抱下さい」

「私の後に乗っているくせに何を言う。大丈夫だ。ただ、そろそろ追ってが来るはずだから、後方は頼むぞ。無事、帰還できたらお前の仕事は完了だ」

10分後、砂煙が近づいて来るのが分かった。馬も疲れてきたことに違いなく、このスピードでは追いつかれる可能性がある。段々と近づく砂煙に対処すべく方法がない。そのときだった。

「後は任せろ!俺がここを食い止める」

ぼく達の目の前に安島さんが現れた。

「何で安島さんがここに!?」

「一之瀬の行動くらい把握してたよ。どうぜこうなると思ってあらかじめ準備していたんだ。姫様!長い間お疲れ様でした無事でなによりでございました。必ず帰還して下さい」

「他の国に行ったのかと」

「それも考えたが、お前に救ってもらった命を使ってみたくなったんだよ。一之瀬!いや、同じく姫様と呼ぶべきだろうな!。決して諦めるな!早く行け!」

心の中で安島さんに本当にありがとうと伝えた。最後まで信じてよかったと思えた瞬間だった。

そして、姫とぼくは、なんとく湯谷国に無事に国境を越え、多くの仲間がいる場所に戻って来た。

その後、湯谷国と豊国の間で何があったかはぼくには分からない。何故なら現代に意識が戻ってしまったからだ。

ただ、姫が国境を越える前にぼくに伝えた言葉と記憶が残っている。

「一之瀬千紘は姫であり、千尋でもある。これで離れていた二つの心が一つになることができる。ここまで迎えに来てくれて本当にありがとう。最後に千尋はお前に助けられたと感謝しているはずだ」

――催眠状態から目が覚めた。

ぼく…わたしは全ての記憶を整合させることができた。私の隣で椅子に腰をかけているのは小林先生という精神科医のおかげだけど。私は昨年の10月から治る兆しの見えない心の病気の治療に通っていたらしい。

父と母が亡くなり、大学一年生でこれからの人生をどのようにすれば分からなかったわたしは、現実から逃げた。そのことがきっかけで心は乖離し、いつしか千尋と千紘の二つの心が身体を支配するようになっていった。大学卒業後も状況は変わらず、悪化の一途を辿っていたらしい。

けれど、それではいけないと、ぼくの心を支えてくれていた千尋の心が一つになろうと努力してくれたおかげで、今、こうして心を取り戻すことができるようになった。私が治療できるよう依頼してくれたのも千尋だったらしい。

「ここの治療代は?」

「千尋さんが稼いだお金から出ていますので、大丈夫です」

子供が出来たという嘘までつくり上げ、いつしか千尋の心に芽生えていた結婚をしたいという想いまでも諦めさせ、心を戻そうとしたきっかけが、父と母と千紘しか写っていない家族写真だった。そこに写っていたのは自分ではなく千紘だった。やっぱり自分はこの世界に生きることはできないと悟ったらしい。

「それから、千尋さんがあなたの意識が戻ったら渡して欲しいと」

小林先生から手渡されたのは、父と母が大学の入学祝いに買ってくれた誕生石である瑠璃石のペンダントだった。

全部、自分一人が行った事だった。

そこまで酷かったのかな。

でも、何故もう一つの千尋はぼくを助けてくれようとしたんだろう。

これでやっと、本当の”ちひろ”として生きていけるけど、千尋を好きでいた自分の記憶が断片的に残っていて、それが懐かしく思えた。

病院をあとにしたのには、少しづつ春めいてきたと感じられる陽気の昼下がりだった。本当に自分でつくりあげた”千尋”だったのだろうか。