短編小説『ひろ』

小説

人の性格は顔に表れるっていう。

じいちゃんは、人の性格は顔に表れるって僕によく言っている。表情は人によって全然違うことは誰が見ても分かることだ。ただ、そこに含まれるじいちゃんが言う性格の本質を表しているかどうかは分からない。
人にはそれぞれの性格があり、自分にしか分かり得ない自身の価値観で人の性格を決定付けるかのような考えは少し違うと感じていた。

『温泉宿 尋』

「こんにちは」

「いらっしゃい」

声を掛けてくれたお客さんは常連さんの人だ。僕はちゃんと頭を下げるようにしているが、いまだ、いらっしゃいませとお客様に声を掛けることが出来ていない。自分では頭を下げることで来てくれてありがとうございますと伝えているつもりだけど、たぶん、お客さんには声を出すことができないダメな子ねって思われているかもしれない。

僕にとっては声を併せて伝える事が、ここの宿の従業員になったような気がして、まだ、就職する歳でもないのに、自分の歩む道が決まっているかのような気がして嫌だから、あえて声は掛けないようにしている。

親はいないから、この宿の経営はじいちゃんが一人で行っている。経営といっても小さな温泉宿だし、じいちゃんの年齢を考えて、今では宿泊客を受けいれないようにしている。したがって日帰り温泉施設のような状況だ。それに古臭くて、建物の老朽化がひどい。それでもお客さんが来る。なんでも温泉の泉質が良いみたいだが、僕が生まれるよも遥か前には、今では偉大な文豪と語られる人達が多く湯治に来たらしい。それもあってか、じいちゃんはこの宿に相当な誇りを持っていて、ことあることに僕に自慢をしていた。

それもあってか、年齢的にきついはずなのに、ばあちゃんが死んでからは一人でずっと守っている。僕はそんなじいちゃんが心配で高校生になると、学校が終わってからの時間と、週末の土日は宿の仕事を手伝うようになった。手伝うといっても掃除と番台にいるじいちゃんの隣にいて、日帰り温泉に来る方に提供しているお茶を渡す事ぐらいだ。

そんなじいちゃんには普通の人とは違う変わったところがある。

「何故、彼女はいつも毎週末のこの時間帯に来ると思う?」

時計なんかあんまり意識して見ないから、確認してみると針は午後の五時を示していた。

「普通の人は平日の日中というと、仕事をしているだろうし、平日に来ることができないから、週末に来ているんだと思うけど。それにこの時間帯を選ぶのは、一番来易いか時間帯かお客さんが少ない時間帯を分かっていて選んだんじゃないかな」

「それは少し違う。半分は当っているが、半分は間違っている」

じいちゃんはいつも人を見ては、その人の性格はどういう人だとか、なんの仕事をしているとか勝手に推理をしては僕に質問をしてくる。それに答えるようにしてはいるけど、ハッキリ言って面倒くさいと感じることがほとんだ。でも、特に家にいてもやることがないから、大抵はこの宿で過ごし、じいちゃんの話の相手になっていることが僕のやることみたいなもんだ。

半分は当っているという理由は、単純に平日の日中は仕事をしているから、週末に来ることになっていることだとは思うけど、残り半分の理由は見当がつかない。じいちゃんに答えを教えて欲しい顔を向けても絶対に教えてくれない。その答えもじいちゃんの勝手な推理だから、当っているかどうも本当のところは分からないけど、その答えを欲しがる僕の表情が好きみたいで、ものすごく嬉しそうな顔をする。

この温泉宿では温泉入浴台帳に記載してもらうことにしてもらっているため、先ほどの女性の名前も記載されていた。今日は五人程ぐらいしか来ていない。週末でお客が多く入るはずなのに滅多に降らない雪のためか交通機関が乱れているらしく、毎週末来る若い男性以外は近所に住む常連のおじさんしか来ていない。その女性の名前に答えがないか見てみたが、ごく普通の名前だ。〈宮崎真尋〉そう書かれていた。見た目は二十代後半ぐらいだ。

「じゃあ、ヒントをちょうだい」

しょうがないなという顔をしているけど、こういうやり取りをするのが好きなんだろうなとすごく感じる。答えよりも答えに至る過程を楽しんでいるようだ。

「一つだけだ。彼女には会いたい人がいるはずだ」

「会いたい人って、この宿にはじいちゃんと僕と他のお客さんだけだよ。じいちゃんと僕は無いだろうから、毎週来ている他の男性客ってことだよね」

「さて…、それは分からないな」

「どういうこと?毎週来ている若い男の人、しかも彼女よりも後に来る人でしょ」

「……はずれだ」

はぁ……。まったく分かりませんけど、もういいよって気持ちになる。大抵、良く分からないまま一日が過ぎてしまう。今日も同じはずだ。こんな感じで答えが不明なものが数多く蓄積している。僕が答えを出すまで、正解は教えてくれない。まっ、正解といっても、じいちゃんの偏った物の考えから生まれた答えなんだろうけどね。

でも、今日は少し違った。

「大変だ! 大変だ!!」

男湯の方から大きい声が聞こえてくるなり、いつもの常連さんの人がこちらに走ってくる。息もつかず、声を発した。

「大変だ!倒れた人がいる!早く救急車を呼んでくれ!」

 じいちゃんはいつだって冷静だ。

 救急車を呼んでおけと僕に言って、じいちゃんは奥の男湯の方向に走っていった。

 早く救急車を呼ばなきゃ、何番だっけ……。人は経験したことがない事があると硬直し思考が停止してしまう。ばあちゃんが倒れた日もそうだった。僕が学校から帰ってきて居間で勉強をしていて、ばあちゃんは夕飯の準備をしていた。バタンと大きな音が聞こえて慌てて台所に行くと、苦しそうに倒れていた。僕は気が動転して、どうすることもできなかった。その時は、じいちゃんがたまたま宿を早く閉めて帰ってきたから救急車を呼ぶことができたけど、その時の後遺症の影響もあってか、その後すぐにばあちゃんはこの世から旅立つこになった。

僕には呼ぶことは出来ないんだ。なんで、じいちゃんは僕に押し付けたりしたんだ。

……その時だった。女湯の方から真尋さんが出て来た。僕が一人しかいないことに気づき、しかも、僕が慌てている事を察したのか、声を掛けに来てくれた。その時ばかりはちゃんとお客さんと会話をした。事情を伝えると、すぐに救急車を呼んでくれた。じいちゃんは倒れた人の手当をしているみたいで、戻る様子はない。少しずつ救急車のサイレンが大きくなり、この宿に近づいてくるのが分かる。倒れた人は助かるだろうか。救急車を呼ぶのが遅れた数十秒が命取りにならないだろうか。救急隊員は男性をストレッチャーに乗せると、すぐに病院に向け出発した。

じいちゃんが戻ってきた。僕が心配そうな顔をしていると、大丈夫だと言って僕に救急車を呼んでくれてありがとうと言ってくれた。いや違うよ。じいちゃん。助けてくれたのは真尋さんだと心の中で呟いた。

自宅への帰り道、じいちゃんはおかしな話をした。

「何故、彼女はお前がすぐに救急車を呼べないことを知っていたと思う?」

「どういうこと?」

 じいちゃんに“彼女”と呼ばれる宮崎真尋さんはいたって普通の人だと思うし、さっきは、救急車を呼ぶのを手伝ってくれたし、悪い人には見えない。それに毎週来る度に僕にあいさつをしてくれる人物の一人だ。僕と真尋さんとの接点なんかそれくらいだし、それだけで、僕がすぐに救急車を呼べないことを分かっていたとは思えない。どうせ、いつもの自分勝手な推理にしかその時は考えていなかった。自宅と言っても同じ敷地内にあるため、あっという間に着いた。

 次の日、真尋さんは仕事終わりなのか、宿を閉める時間ギリギリに宿にやって来た。

「倒れた方は大丈夫でしょうか?」

 じいちゃんは大丈夫そうだと真尋さんに伝えた。

じいちゃんも直接本人から訊いたわけではない。じいちゃんと常連客との会話を聞いた内容では、湯あたりではないかとのことだ。ただ、持病があったらしく、一週間ほどは経過を観察するとのことで入院するらしい。

「あの方も毎週来られていますよね」

「毎週来てくれる常連さんだから、またそこの戸を元気に開けて欲しいね」

「私も毎週、ここで会っている仲なので、出来れば入院している病院を教えて頂けないですか?お見舞いに伺ってみたいと思いますので…」

 じいちゃんは、常連客から訊いた病院名を彼女に伝えていた。彼女は嬉しそうに名称を控えていた。

 きっと、この温泉宿で出会って、好きになって、恋をしたんだね。この宿ってすごいじゃない。小声でじいちゃんが、お前は何も分かっていない……と囁いた。

 数日後、毎日来る常連さんが、じいちゃんにある事を伝えていた。隣で聞いていた僕には、その内容が信じられなかった。男湯で倒れた男性が、病院に運ばれた次の日に容態が急変し、亡くなったらしい。若く健康そうな人だっただけに信じられなかった。

ただ、衝撃的な事実があった。

じいちゃん曰く、誰かに殺されたらしい。
何をおかしな事を言っているんだと思った。本当に殺されたのだろうか、それとも単なる病死なのか。もし殺す人がいるとしたら、真尋さん?いつも挨拶をしてくれるような人が病院で大胆な行動に出るのだろうか。そもそも彼女が男性を殺す理由はなんだろう。 

「お前は毎週来ていた彼女と彼をよく見ていたか? 見ていれば分かったはずだ」

 正直、全然分からなかった。じいちゃんは何を言っているんだろうと、言っている意味の本質がなんなのか――、彼女はおかしな事をする人ではない事だけは分かる。

彼女は毎週末の夕方にいつもやって来る。荷物はタオルと着替えが入ったナイロン製のバッグのみだ。財布はいつも手に持っている。ここに来るようになったのは、ここ二年ぐらい。二十代の客は少ないから、宿を手伝うようになってからすぐに顔を覚えた。いつも笑顔で挨拶をしてくれる。ほんの少し、真尋さんに毎週会えるのを楽しみにしている自分の気持ちをじいちゃんには見透かされていたのかもしれない。真尋さんは、湯から出ると、ロビーのソファーで三十分くらい休憩して、その間、他の常連客さん達と少し話してから帰るようにしているみたいだった。ここまで考えてみた僕の頭の中にはごく普通の女性としか浮かんでこない。僕だって、殺人者がどのような思考を頂いているかは分からないけれど……。

 亡くなった男性の方は、真尋さんよりも少し前から来くるようになった。たしか、川島健一さんだ。二十代後半くらいだろうか、さわやかな人で、挨拶する時に見せる彼の笑顔からは、とても人に恨まれるような感じは受けなかった。仮に真尋さんとこの場所で会い、毎週同じ日の同じ時間で会うようになった二人が仲良くなることは当然にあったと考えてよいかもしれない。だからって殺す理由に発展することなんて考えられない。

真尋さんは彼を好きになり、告白したけれど彼に断られた。それに対し、真尋さんは逆恨みし、殺すに至った。こんな安易な筋書き、あるわけがない……。

川島健一

 私はここの宿に来るようになってから、不思議と執筆活動に精が出るようになった。というのも、この宿が偉大な文豪達に好かれたことを知っていて、わざわざ電車で一時間以上も掛けて行くことで自分は大丈夫だって、まだ書く力を持っているって思えたからだ。まだ世に出てもいないというのに、世間から評価もされた事がないのに、自分が文学者の一員になった気になっていた。

何故、この宿を知ったかというと、私の実家は、この温泉宿がある町内にあり、何を隠そう近所だ。じいさんのことだって知っていた。ただ、高校の頃は文学には興味が無かったし、国語の授業で登場した人物がこの宿を好んでいたということを知っていただけだ。高校を卒業し、親の家業もあり幼少の頃から物を造ることが好きだった私は建築系の大学に進学した。そこであの宿を知ることになった。

建築の歴史を学ぶ授業で、明治期の西洋の建築様式を取り入れた建築物として教科書に載っていたからだ。その時から、あの宿に興味を頂くようになった。そうしているうちに、あの宿で生まれた文学に興味を抱くようになり、明治、大正の純文学を読むようになった。文章による表現がこんなに素晴らしいものだとは思ってもいなかったから素晴らしさに衝撃を受けた。それも明治、大正、昭和初期の文学を彩った人達の一部が、実家の近所の宿で生まれていると思うとますます興味が沸いていった。

自分でも文章を書いてみたいと考えるようになったのは、大学を卒業して大手の建設会社に入社してからだ。きっかけは社内で年に一回開催される短編小説に応募する事になったのだ。各部署から一人以上が必ず応募する決まりになっていて、新人だった私が選ばれたのだ。

そしたら、たまたま書いた内容が良かったのか、受賞した。受賞といっても、世間的には誰も分からない事だから自慢出来るものではなかったけれど、私にとっては人に評価される喜びを知る事になった。

自分の本を出し、未来の読者に会いたいという気持ちが次第に膨れ上がっていった。暇があればパソコン向かい、文字を書くようにしていた。今いる部署は週末が休みとなるため、週末を利用してここの温泉宿に行き、構想を練り、家に帰っては文章を書くという習慣が早くも四年が過ぎようとしていた。

 そんな時だった、ある日から私とそんなに歳の変わらない女性と同じ日の同じ時間帯に会うようになった。最初の半年近くはなんの挨拶もしなかったが、一年が過ぎたあたりから、遇うと会釈をするようになった。そして、彼女から話を掛けてきたんだ。私が宿に忘れた小説ノートを彼女が宿のじいさんに届けてくれたのがきっかけだった。彼女は、どんな小説を書いているのだとか、受賞したことはとか、私の小説に興味を持ってくれたようだった。私は正直に伝えた。今までメジャーな受賞経験は無く、いつも落選しているって。それでも彼女は私の小説の話しを楽しそうに聞いてくれた。いつも湯冷めしないうちに帰るから、会話できるのは三十分も無いくらいだったと思うけれど、いつしか毎週会うその日が私には楽しみになっていった。彼女との会話から得られるものは、私の書く文章にも影響していった。

あの日もいつものように温泉宿に向かった。

「こんにちは」

「いらっしゃい」

 この温泉宿には、じいさんと高校生ぐらいの可愛らしい女の子がいる。たぶん、じいさんの孫だろうと思う。ここに通い始めて一年ぐらいした頃からだろうか、ばあさんと入れ替わりで店番をするようになったと記憶している。いつも挨拶をするが返事をしてくれるのはじいさんの方だ。女の子の方は頭だけ下げてくれる。少しぶっきら棒なところがあるが、高齢のじいさんを気遣っている優しい子だろう。

「今日は少し来るのが早いね」

「一本早い電車に乗れまして、そしたら快速だったもんですから、いつもよりも少し早めにこれました」

「どうぞ、ゆっくりしていって下さい」

 この温泉宿では珍しく、日帰り入浴でも宿台帳に記載することになっている。私はいつも通り、自分の氏名を書いた。でも、いつも先に書いてあるはずの彼女の名前がなかった。

「今日は…いつも来る彼女は…?」

「彼女…?そういえば来ていないですね」

女の子が、いつも会話しているのに、連絡先ぐらい知っているでしょって言いそうな顔をしていたが、構わず話しを続けた。あえて彼女と言ったのは、この宿で本来の自分の目的以外に何かを見つけ、本来なら知り会えなかった女性の名前を知っていることをじいさん達に知られたくないと思ったからだ。

「そうですか、でしたら、お手数ですが、来られたらこれを渡してもらえませんか?」

 じいさんは構わないよと言って受け取ってくれた。受け取ってくれない可能性もあるけど、彼女と出会って二年間の間に彼女のおかげで成長できた証とその気持ちをきっと彼女は受けとってくれると私は信じている。

いつも通りに湯に浸かり、いつもの時間入ったつもりだった。今日は、彼女が私の気持ちを受けってくれたときの表情が気になり、小説の構想よりもそっちばかり気になった。いつもよりも少し長く浸かり過ぎたかなって思って、脱衣所に向かった時だった。私は倒れた。大丈夫かっていう声が遠く聞こえていたが、次第に意識が遠くなっていった。

 気が付くと、病院のベッドにいた。

宮崎真尋

 私がこの温泉宿に通うようになったのは、川島さんと再会したからです。川島さんは憶えていないかもしれないけれど、私は前から知っていました。

私の出身はこの温泉宿がある町の隣の市で、高校卒業まで暮らしていました。隣の町に多くの温泉宿があるのは知っていたけれど、私の生まれたまちも温泉が有名で全国的にも知名度が高い観光地になっています。中学生までいじめられていた私は、同級生達が進学するだろうと思われるこの市内の高校には行かず、五駅先の高校に行くことにしたんです。川島さんも同じ高校でした。川島さんは私の住む町の次の駅から乗車していました。いつも同じ車両だったんです。学年は二つ違ったので、一緒の電車だったのは、一年間でしたが、高校一年生の時の夏休みが川島さんとの最初の出会いでした。

それは、夏休みに学校の図書室を利用しにいつもの電車内で起きました。

私が通っていた学校では、夏休みも勉強する生徒のためにと図書室を開放していて、私はよく利用していました。その日もいつものように電車に乗ると、たまたま中学の同級生、しかも私をいじめていた人達に遭遇してしまったんです。一駅を過ぎたあたりだったでしょうか、やっぱり、私をからかい始めたんです。すごく恐かった。また、物を投げつけられたり、殴られたり蹴られたりすんじゃないかって、次第に私を取り囲むようになっていったんです。恐怖の時間が始まったと思いました。周りに座っていた大人達はいつの間にか消えていて、私を助ける人は誰もいない、せっかく、遠い高校に通って、いじめっ子達とサヨナラして、楽しい三年間を過ごすつもりだったのにと半ば諦めました。

そしたら、同じ車両に乗っていた川島さんと川島さんの友人達が助けてくれたんです。一人相手に何しているんだって、たぶん、その時は同じ制服を着た弱々しい子がからまれているからって助けてくれたんだとは思います。とても素敵な人でした。それから、川島さんが卒業するまで、同じ車両になる度に挨拶をしていました。

私の性格上、自分から声を掛けることなんて恥ずかしくてできないから、あっという間に時間は過ぎてしまいました。それでも、卒業式に向かう電車の中で、勇気を出して川島さんに声を掛けたんです。

「ご…ご卒業おめでとうございます。…あの時は…本当にありがとうございました」

「別にお礼なんかいいよ。同じ学校の生徒がいじめられていたんだ。助けるのは当たり前だろ。それよりも強くなれよ。またいじめられたら今度はやり返してやれ」

「……はい。頑張ってはみますけど――、・・・先輩は進学ですか?」

 私が通う学校は県内でも屈指の進学校だから、大半の生徒は進学します。だから、川島さんに言われた強くなれって言葉よりもどこに進学するかの方が気になっていました。

「東京にある○○大学だよ。それがどうしたんだ?」

 え、先輩は勉強もできるんだと思ったのと同時に、あめでとうございますと伝えて、その場を後にし、別の車両に移動しました。これで先輩との同じ電車に乗る時間は無くなる。悲しい気持ちにはなったけど、私には新たな目標が生まれたんです。同じ大学に行くんだってね。

 そして、二年後、同じ大学に通うことが叶ったんです。学部は違ったけれど、川島さんと同じ大学に通えているだけで嬉しくて、川島さんに会えることはほとんどなかったけれど、あっ、嘘を付きました。二単位だけありました。三年生と一年生が同じ授業を受けることはあまりないんですけど、たまたま、日本建築史っていう科目が私の学部でも単位として認められていて、そこで川島さんと再会したんです。いや、正確にいうと、見つけたが正しいです。川島さんは私に気付かなくて、私も声を掛けることが怖くて、結局、会話することができずに終わってしまいました。でも、仕方ないんです。私が変わったから。川島さんは何も悪くないんです。

 その後、別の何人かの男性とお付き合いをしたけれど、すぐ別れてしまいました。私の心の中の一部に川島さんを忘れられない気持ちがあったからだと思います。川島さんが卒業して、川島さんが所属していた研究室の友達に建設会社に就職したって聞いて、私もって思いました。でも、それでは私が川島さんを追いかけているだけの人だけになってしまうと思えて嫌だったんです。だから、同じ会社に入ることは諦めました。その変わり、女性としての魅力を磨こうと考えたんです。いつか再会するかもしれない川島さんに気に入ってもらえるようにって。

そのためにも美容にお金を掛けたかったから、海外の本社のある商社に就職することにしたんです。私の大学のブランド力があれば、少し頑張れば入社できると考えていました。大学の間も成績は良かったですし、特に外国語は頑張りましたよ。海外の商社だったら給料が違いますからね。無事就職も出来て、そこの会社に二年間お世話になってキッパリと辞めました。家族からはせっかく良い会社に就職できたんだから、辞めるなって散々、電話で叱られました。

だけど、私には次の目標があったんです。女性としての魅力を磨くための努力が――だから、都内の有名なクラブに就職しました。高校の頃はそうでもなかったけれど、大学に入ってからは自分の顔をちゃんと表に出すようにしたんで、自分で言うのもおかしいけれど、私の顔って綺麗な分類に入ると思います。結構、モテましたよ。それもあってか、化粧をすると更に女性として魅力的みたいで、すぐにトップになりました。ここでは他の女性スタッフ達やママから学ぶことが数多くありました。あの二年間は本当に勉強になった。

でも、その頃から家族とは疎遠になっていきました。妹への電話も次第に無くなっていったと思います。家族に会うのが億劫になっていたのは事実だけど、本当は、私の変わりように言葉を無くすんじゃないかって怖くて帰ることができなかった。

次に今度は何が良いかって考えて、川島さんの実家の近くで就職することにしたんです。そしたら、実家に帰省する川島さんに会えるんじゃないかと思って。それに実家がある隣町に住めば、家族の様子も見に行けると考えました。

 私がこの町役場の試験に合格して来年の四月から働くことが決まった十二月頃でした。親の会社が倒産したことをニュースで見ました。その上、両親が急死したという知らせをばあちゃんから聞いたのは――そのときです。

実家は父が経営していた旅館でしたけど、経営的に行き詰っている感じはなかったし、私の大学費用も出してくれました。そんな、倒産だなんて、分からなかった。本当に申し訳なくて、両親の葬式で家族に再会したけれど、じいちゃんとばあちゃんは変わらず私を迎え入れてくれた。妹は両親がいなくなったショックのためなのか、私の事を忘れてしまっていました。それに、声を出すことが出来なくなっていました。何でも医者の話では、すぐに治る病気ではなく、根気よくゆっくり治療する必要があるとの事でした。そして、妹は治療も兼ねてじいちゃんとばあちゃんと暮らすことになったんです。

 ばあちゃんが倒れてしまった頃でしょうか、妹はじいちゃんの仕事の手伝いをするようになって、少しずつ、声が出るようになったんです。それに、その頃です。川島さんと再会したのは。高校を卒業してから八年も経過していて、容姿や雰囲気が変わっていたせいもあってか、私の事なんて忘れてしまっていたけれど、温泉宿の日帰り入浴でよく会うようになり、川島さんが小説を書いているのが分かって、その話が会話の中心でしたけど、ここのお手伝いをしているのが私の妹である事を伝えました。また、妹の病状を伝えて、毎回、声を掛けてあげるようお願いもしました。

川島さんの話を聞いてあげて、妹のためにしてあげられることを何でもやろうと考えた結果でした。ハッキリ言ってその頃には川島さんに対する恋愛感情は無くなっていました。自分勝手な人生を歩んだあげく、妹をこんな風にしてしまった自分が許せなくて――、川島さんに再会して嬉しくはあったけれど、もう川島さんに抱いていた恋心は無くなっていました。

それに川島さんだけではありません。妹に声を掛けて欲しいって伝えるために、湯冷めする身体に耐えて、温泉から出てくる多くの男性客にお願いしました。中には、自分の事が好きなんじゃないかって勘違いする男性もいて、たまに怖い思いもしました。

功を奏して、妹はじいちゃんとなら会話ができるようになったんです。すごく嬉しかった。それに医者の話では、もう少し頑張ったら私の事も思い出すのではないかって。

「こんにちは」

「いらっしゃい」

 私のじいちゃんは、私が来ても低い声で他人行事に挨拶する。
いつも、こんな感じだ。じいちゃんの隣に座っている妹は頭を下げる事しかしない。妹の顔は私とそっくりで、母親似りの顔付きだ。妹にはちゃんと、目を見つめて挨拶をする。少しでも私の事を思い出してもらうためだ。そして、いつものように自分の氏名を台帳に記入し、女湯に向かう。ただ、今日は違った。女湯に向かう前に、じいちゃんに呼び止められたのだ。

「真尋に渡したいものがあるんだとさ……、受け取ってやれ」

「うん…」

 それは茶封筒だった。脱衣室で封筒を開けるとそこには原稿用紙が入っていた、タイトル『僕の好きなひと』。明らかに私に宛てた小説かラブレターである事には間違いない。私の今にとって、申し訳ないけど川島さんに興味が無いから読む気にはならなかったが、これまで妹に対して協力をしてもらったから、読んであげて感想を伝えてあげようと思った。

 湯から上がって脱衣場で着替えていると、大変だ!って声が聞こえてきた。妹になにかあったんじゃないかと慌ててロビーに向かうと、そこには一人でオドオドしている妹がいた。

「千尋どうしたの?」

「えっ、私の名前…」

「いいからどうしたの?」

「じいちゃんに、救急車を呼んでくれって言われて……」

 今にも泣きだしそうな千尋に代わって私が救急車を呼んだ。その後、救急車が到着して、川島さんを病院に搬送していった。じいちゃんが戻って来て、たぶん、湯あたりだろうとのことだった。千鶴は私にありがとうございますと頭を下げた。

「今日も素敵な湯をありがとうございました」

 そう言うと、千尋はちゃんとありがとうございましたって、声に出しそうな表情を浮かべて頭を下げる。今の私にはこれで十分かもしれない。戸を開けて家に帰ろうとしたときだった、玄関先で掃除をしていたじいちゃんに声を掛けられた。

「また、来週来るのか?」

「そうだよ」

「いつも、ありがとうな」

 それが、来週ではなく、早くも次の日になろうとは…あの短編小説を読むまでは――。

宮崎利雄

 わしが孫二人を守らないといけないと強く意識するようになったのは、旅館の経営に失敗して、それを悲観した息子夫婦が自殺し、更に数年後に妻が死んでからだ。特に千尋は息子達が死んでからというもの、人と会話をすることができなくなった。相当ショックだったに違いない。

何故なら、両親が自殺しているのを発見したのは千尋だったんだ。あの頃、千尋のそばに真尋がいれば、千尋が心を閉ざすことは無かっただろうと思う事はある。何故なら千尋は真尋の事が大好きだった。

真尋は高校を卒業し大学に進学すると、閉じこもっていた殻から抜け出したように容姿が変わっていった。わしは真尋の本当の姿を小さい頃から知っていたから不思議には思わなかったが、息子達が嘆いていたのは知っている。それが本当の真尋らしさだったのかもしれない。

現に千尋に対する優しさは変わらなかった。千尋をわし達の元に引き取ってからというのも、真尋は、毎週末会いに来てくれた。さらに東京での仕事を辞めて、この町に就職するということを本人から訊いて、千尋を守っていくと決めたのに違いないと思った。

そのおかげで、千尋は少しずつ病状が良くなっていき、わしと会話が出来るようになり、わしが千尋のリハビリにと考えた思考させる会話も功を奏してか、今では私に対して、憎まれ口をきくようになった。全てのきっかけは真尋のおかげだ。

ただし、順境に映る光景も、真尋が放った自分の身を危うくしかない矢が自分に返ってくる恐れを除いてはだ。

「こんにちは」

「いらっしゃい」

それは、毎週末になると来る川島健一だ。彼は必ず千尋に向かって挨拶をする。

「今日は少し来るのが早いね」

「一本早い電車に乗れまして、そしたら快速だったもんですから、必然的にいつもよりも少し早めに来れました」

「ゆっくりしていって下さい」

 川島健一は台帳に自分の名前を記入した。

「今日は…いつも来る彼女は…?」

「彼女…?そういえば来ていないですね」

「そうですか、でしたら、お手数ですが、来られたらこれを渡してもらえませんか?」

「構わないよ」

川島健一は男湯に向かって歩いていった。

川島健一から渡されたものは宛名〈宮崎真尋 様〉と書かれた茶封筒だった。隣にいる千尋は見てはいけないって顔をしているが、わしには孫を守る義務がある。中身を確認する必要がある。

短編小説『僕の好きな人』と書かれたタイトルと原稿用紙が入っていた。

 その後、真尋が遅れてやって来て、いつもように千尋に“こんにちは”と挨拶をして台帳に名前を記入した。名前を書き終わり女湯の方に歩いていった真尋を呼び止め、川島健一から託された封筒を渡した。

 川島健一が男湯に入って数十分経った頃だ。常連客が“大変だ!救急車を呼んでくれ”って言ってきたのは。倒れた時間は真尋も女湯に入っているはずだから、真尋が何かするはずもないし、ましてや他の常連客が川島健一に恨みを持ち、何かしたとも考えられない。千尋はわしと一緒に居たから千尋が何かするとも考えられない。倒れたのは偶然だったに違いない。

 やっと落ち着き、宿を閉める準備をしていると、真尋が玄関の戸を開けて、宿から出てきた。

「また、来週来るのか?」

「そうだよ」

「いつも、ありがとうな」

 わしにはいつもこんな言葉ぐらいしか掛けられない。本当は真尋にはやりたい事があるだろうし、千尋のために帰ってきてくれた事は素直に嬉しいが、自分の人生も楽しんで欲しいとも思っている。真尋が危険を冒してまで千尋を助けようした行為が自分の身を危うくしている事に何もできない自分が情けなかった。息子達まで亡くし、その上、真尋まで――。考えるだけでゾッとする。今でも、息子の旅館経営にアドバイスをしてあげれば良かったと後悔している。そうすれば自殺なんて行為に及ぶことはなかったに違いない。

わしが出来る事は二人を守ることだ。二人の未来には、笑ってもらう必要がある。二人で支え合ってこの人生を生きて欲しい。

偶然が及ぼしたこのチャンスを逃すわけにはいかない。

 次の日、真尋は川島健一が入院している病院を教えてくれてとやっぱり言って来た。

宮崎千尋

 私は自分の事をいつの間にか“僕”と言うようになっていた。お姉ちゃんが東京の大学に行くことになって、両親と三人暮らしになると言われた時は悲しかったけど、お姉ちゃんのためだと思って我慢した。

お姉ちゃんが東京に旅立つ日。一人で駅まで見送りに行った。両親は経営する旅館の行事で忙しいと言って来なかったから僕だけ行ったんだ。寂しくてお姉ちゃんに泣きついて、行かないで言ったけど、行く事は仕方のない事だとは分かっていたから、離れたくはなかったけど、何かあったらすぐ帰ってくるからって言って僕の頭を撫でて抱きしめてくれたお姉ちゃんを信じた。

まだ小学生だった僕にとっては、いつも旅館の仕事で忙しい両親より、お姉ちゃんと過ごす事が大半だったから、すごく辛かった事を憶えている。そして、お姉ちゃんは僕に嘘を付いた。帰って来なくなったんだ。再会したのは僕が心を閉ざしてからだ。

 最初は誰だか分からなかったけど、声と僕に向ける表情でお姉ちゃんだとすぐ分かった。

全然帰って来なかったお姉ちゃんの事が許せなくて、分からないフリをしていたけど、段々と申し訳なくなってきて、どっちかというとお姉ちゃんとお話がしたくて、自分がしていた行為に今では反省している。

 じいちゃんが良く僕に話していた人の性格は顔に表れるって言葉の意味は正しいと思う。お姉ちゃんの優しさは何一つ変わっていなかった。その変わり、優しさを利用しようした男がいた。最初のうちは単純にお姉ちゃんの事を好きになっただけだど思ったけど、その愛は次第に歪んでいったのが分かった。

 今日のあいつは、いつもよりも早く来た。

「こんにちは」

「いらっしゃい」

じいちゃん、こんな奴にいらっしゃいなんて言う必要ないよ。絶対、お姉ちゃんを奪いに来たんだよ。そう心の中で呟いた。何故なら、最初に来ていた頃の顔の表情と今ではまったくの別人だからだ。変わったきっかけとなったのはお姉ちゃんと出会ってからだ。

「今日は少し来るのが早いね」

「一本早い電車に乗れまして、そしたら快速だったもんですから、いつもよりも少し早めにこれました」

「ゆっくりしていって下さい」

外は大雪だというのに、電車が普通に走っているわけないよ。現に今日はいつも来る他の常連さんがいないじゃないか。こいつはどこかでお姉ちゃんが来るのを身張っていたんだよ。しかも台帳に記入している川島健一はペンネームで本名は隠してるよ絶対に。

「今日は…いつも来る彼女は…?」

「彼女…?そういえば来ていないですね」

「そうですか、でしたら、お手数ですが、来られたらこれを渡してもらえませんか?」

 構わないよと言って、男湯に入るのを確認してから、じいちゃんがその茶封筒と中身を確認した。暫くすると、じいちゃんの顔は段々と青冷めていった。

これはまずいと思った。きっと、あいつはお姉ちゃんが自分の物にならない事に苛立って、行動に出たんだ。中身までは分からないけれど、じいちゃんの表情を見る限り、相当良くない事だ。

「こんにちは」

「いらっしゃい」

 お姉ちゃんがやって来た。相変わらず僕の目を見て声を掛けてくれる。ここに来る時のお姉ちゃんは化粧をしていないから、表情が良く分かる。優しさが滲み出ている。とても好きだ。もう僕は話せるようになったんだよって、僕なんて言わずに私のお姉ちゃんって言ってすぐにでも抱きつきたい。この宿を手伝うようになったのだって、じいちゃんの事が心配だったのもあるけど、きっとお姉ちゃんが会いに来てくれると思ったからなんだよ。

 予定通り、あいつは倒れた。この宿ではお風呂に入る前にお茶を提供している。あいつが飲むかどうか分からなったけれど、お茶に医者から処方されている睡眠薬を混入した。

 後は、病院に見舞いに行くフリをして、病院で死んでもらうだけだ。その方法はまだ考えていないけど、なんとかなるだろう、警察なんか怖くない。捕まる事よりもお姉ちゃんが奪われる方がもっと恐ろしい。

  ◇短編小説『僕の好きな人』 川島健一

 男が女と出会ったのは、大好きな温泉宿に通い始めて暫く経ってからだ。はじめは純粋に文学に対する気持ちからその宿に通い始めた。最初の二年間は文学活動に精を出した。それでも受賞するに至らなかったらしい。どうしたら賞をとることができるんだって悩んでいた頃だったらしい。男の小説に興味があるのか、声を掛けてきた珍しい女がいた。

女は男の書いた小説の話しを聞いては、それは良いとか、それは良くないとか、時にはアドバイスをしてくれた。次第に心を魅かれていくような気持ちになっていった。文学に興味があり、男の話しを聞いてくれる女は男にとって素敵な存在に思えた、いや、自分だけの天使に映ったのかもしれない。毎回話しを聞いてくれる女が、次第に自分の事を好きなんじゃないかって勘違いするようになっていった。女が男の事を好きだと言える根拠なんか何一つないのにだ。

男が女と話す会話は小説の事と女の妹の事ばかり、女自身の事は何一つ教えてくれなかった。いつまでたっても振り向いてくれないのに、女は毎回会う度に会話をしてくれる。もう我慢ができなくなって、ついに男は禁断の言葉を発してしまった。

「君は好いている人はいるのか」

 長い沈黙が訪れると考えていた男は驚愕した。すぐ返事が返ってきたからだ。

「います」

「……それは誰だ?」

「貴方ではありません」

 男は顔には出さなかったが、その言葉は男を傷つけ、男を苦しめ、悩ませた。いつしか恋をしていた事を忘れ、その想いは怒りに変わった。その矛先は女であっても、女に対して直接に行為を及ぶわけではない。女が怒り悲しみ、嘆くことだ。だから、女が大切にするものを壊すことが一番だと考えた。そう、女には大切に想っている妹がいることを……。壊せば自分に興味を示すと思った。男の常軌を逸した思考は現実に実行しなければならないという強迫観念が支配していき、男は衝動を抑えることができなくなっていった。いつでも実行できるよう、常に人生を一瞬で壊す事ができる道具を持つようになった。もう自分で自分をコントロールする事ができなくなった。

 その常軌を逸した思考や言動は、隠せないものになっており、女はその事に気付いた。私の大切な何かを壊そうとしている事に……。

 先に手を打ったのは女の方だった。

――女は男を呼び出した。

男は自分の行為が及ぶ恐れがある事に気付いた女が自分を殺そうと計画したに違いと思い込み、先に自分が殺してやろうとした。女がいつもの温泉宿のロビーで待っていると、先に温泉に入り身体を綺麗にし、これからの行為への許しを神に乞い、女の心の深淵を覗くかのように暗闇に身を潜めた。

 少しずつ、少しずつ、女に気付かれないように近づく。そして、背後に立ったその時、女への報われない思いと憎しみと愛が入り混じった剣を女の背中に向けて振りかざした。

 男が手にしていた剣はソファーに刺さった。男は憎しみに歪んだ顔で泣きながらこう言った。

「君を殺してしまいたくない。だから、僕と一緒になって欲しい」

 ソファーに刺さった剣を抜き、もう一度、頭上まで持ち上げた。女にはこの男にあらがうのを諦めた。そして、恐怖に震えた声でこう男に答えた。

「私を殺して……」

 なのに男は、女が予想し得なかった事を言った。

「じゃあ、君ではなく、君の妹をもらうよ」

女には大切な妹を助けるためには自分が犠牲にならなくてはならない。この男からはもう逃れることはできないと悟った。

「――やめて、分かった……。あなたと一緒になる」

島川一

 病院のベッドは硬くて嫌だな。何で私は倒れたんだ。記憶がたどたどしい…。急に眠くなって、記憶がなくなった。

「島川さん。お見舞いに来られた方がいますよ」

 川島健一はペンネームで、本名は島川一。私の本当の名前を知っているのは、あの宿の関係者には一人もいないはずだ。お見舞いに来たのは、両親くらいだろう。

「川島さん大丈夫ですか?」

「川島さん? えっ? 何であなたが――」

 病院には本名で伝えてあるし、本名以外で訊ねてくる事は不可能に近い。運ばれた病院が分かるにしてもだ。仮にあの日、宿で倒れた人のお見舞いに来た宿の関係者だって言っても、本名と名前が一致しないんだ。病院側は疑問を抱き、病室に通す事はないだろうと考えていた。

「私ね、川島さんに高校一年生の時、電車の中で助けられた事があるんです。憶えていませんか?」

「えっ、あの時、助けたのは確か……弱々しい男だったはずだ」

「その弱々しい男に見憶えはありませんか。私はあの時の事を忘れていませんよ。助けてくれて本当に嬉しかった」

「――嘘だろ。小説は読んだのか」

「読みましたよ。今日、ここに来たのは感想を伝えるためです」

宮崎真尋は島川一に感想を伝えると部屋を去っていった。それを見ていたもう一人の影は、次に島川一の部屋に入ると、すぐに部屋から出て来た。

遠くから看護士達の慌てた声が聞こえる。

島川さん大丈夫ですか!早く先生呼んで!